桜の咲く4月、僕はこの時期があまり好きじゃない。 厳しい冬が終わり、一気に暖かくなっていくこの季節は 僕にはかえって過ごしにくい。 桜を愛でるために皆が景色を楽しんでいる帰り道 その道を僕のような人間が歩いていていいのだろうかと思うからだ。 冬は身体を縮めて歩いていたって、寒いからだと誰も気にしない。 でもこの時期になると、誰もが僕を見て思うはずだ。 分厚い眼鏡をかけて、こんなに背中を丸めているなんて“おかしな奴”だと。 5年前のこの季節、僕は大学4年生で、同級生に恋をしていた。 しかも相手は同性だった。 それは淡く柔らかな感情で、同性が相手だったという事もあり、 その時にはその感情が恋だという事にも気づいていなかった。 けれど今なら分かる。 あの時の感情に名前を付けるなら、それはまぎれもなく恋であったと。 しかしその恋は、見事なまでに粉々に砕け散った。 ある日、彼が友人達と話している声が聞こえてきたのだ。 たった一言“あいつ、気持ち悪いよな”という言葉が。 だから僕はもう恋はしない。 気持ち悪い人間が誰かを好きになったってその想いが叶うはずがない。 僕が誰かに恋したって、その想いは、 いずれ散る花と同じく哀しい運命を辿るよりほかにないんだから・・・ 「だから、春ちゃんは自分を過小評価しすぎなんだよ」 僕はいつもの指定席に座り、いつもと同じカクテルを頼む。 ちなみに春というのは僕の名前である。 春が嫌いな僕の名前が「春」だなんて、皮肉な話だ。 「そんな事ないよ」 「こんなに可愛い子に向かって失礼な事言った 奴の事なんて、思い出すだけ損だよ?」 マスターは僕が通っているバーの店主であり、頼りになる相談相手でもある。 去年のこの時期、僕が背中を丸めて俯きながら歩いている所に声をかけてくれた。 お酒も大して強くなく、人見知りな僕だったけれど、 その時は何故か、誘われるがままにこの店に入ってしまった。 店に入った後にここがゲイバーだと気付いたのだが、 イメージと違い、静かで落ち着いた雰囲気だったので、ほっとしたのを憶えている。 店内の照明はほの暗く、近くに座らない限り、他のお客さんの顔ははっきりとは見えない。 それが僕にはちょうど良かった。 普段は一見さんはお断りらしく、店のお客さんは皆落ち着いた雰囲気の人が多かった。 そして何より、この店には容姿で人を判断するような客はいないようだった。 何気なく交わされる会話や漏れ聞こえて来る単語に、そういった 類の言葉が含まれていない事が、より僕を安心させてくれた。 (一見さんを断る理由は“みんな普段の生活を忘れたくてここに来るのに、 変なお客が来たら酔いも醒めちゃうでしょ?”という事らしい) だからここに居る時だけは、少しだけ前を向いて、背筋を伸ばしていられるんだ。 頼んだカクテルを半分ほど飲んだところで、店のドアが開く音がした。 それと同時に、いつも通りの雰囲気が流れる店内に、少し違った空気が漂った。 その感覚に、普段なら振り返って見たりしないのに、 開いたドアを振り返って見てしまった。 顔がはっきりと見えるわけではないが、 そこには明らかに普通ではない雰囲気の人物が立っていた。 詳しくは分からないけれど、着ているスーツが明らかに上質そうだった。 「あれ、古宮さん!」 マスターがその人物を見てにっこりと微笑んでドアに向かうのを見て、 僕は視線を手元のグラスに戻した。 マスターが普段と変わらない笑顔で対応しているのだからおかしな人ではないだろう。 「ご無沙汰ですね。来る前に連絡頂ければいつもの席のご案内出来たのに」 「いや、いいんだ。海外赴任から解放されたんで、顔を見せに来ただけだから。」 「そうですか。じゃあまた以前のように通って頂けるんですね?」 一連の会話から、彼が古くからの客である事が予想できた。 「ああでも、今はカウンターしか空いていなくて」 「明日朝一で本社に出社だから、今日は一杯だけのつもりなんだ。ちょうどいいよ」 その人がそう言うと、彼を少し待たせてマスターが僕の所に耳打ちしにきた。 「今春ちゃんの隣しか空いてなくて、通しても平気かな?」 今まで誰かが隣に座ったことなんてなかったのだけど、 今日は店が混んでいるみたいだし・・・ でもこうしてわざわざ聞いてくれるマスターの配慮が、 悪いなと思いながらも嬉しかった。 「うん、大丈夫。」 そういうとマスターは嬉しそうにありがとうと笑ってその人を席に通す。 知らない人が隣に座ると緊張してしまうのだが、 このお店では嫌な思いはした事がなかったから、きっと大丈夫。 その人が隣に座ろうと腰をおろしかけた時、彼の方から何かがひらりと落ちて来た。 その気配に彼の方を向くと、偶然にも目が合ってしまった。 目が合っただけですぐに視線を逸らしたので、どんな表情をしていたかも判断出来なかったが、 初対面の人に顔をしっかり見られた事で凄くいたたまれなくなってしまった。 そしてそのまま偶然にも僕のグラスに入ってしまった白っぽいそれは、桜の花びらだった。 「すいません、彼に新しいものをお願いします。」 そう言ってカウンターの奥にいるバーテンダーに向かって手を挙げるのを 僕は急いで制止した。 勢い良く顔を上げたためにまた目があってしまい、今度はゆっくりと視線を外す。 「や、大丈夫ですから。」 花びらが一枚入っただけで、知らない人にお金を払わせるわけにはいかない。 「でも・・・」 「や、本当に!今年は花見をしてないので、ちょうど良かったです。」 今年どころか、この5年間桜なんてまともに見ていない。 なんとか申し出を断ろうとして自分でも良く分からない発言をしてしまった。 今度はしっかり見てしまった彼の容姿が、混乱してしてしまうほど整っていたのだ。 「ああ、いいですねぇ、その発想。 日本に帰って来た感じがして嬉しいです。」 「春ちゃん、古宮さんはね、仕事の都合で2年間海外に行ってたんだよ。 せっかくだから友達になったら?きっと面白い話しがたくさん聞けると思うよ。」 「え・・・」 とんでもない!おそろしく端正な顔をしているこの人と、 気持ち悪いなんて言われた僕とが友達になれるわけがない!! 「あ・・・あの・・・僕」 「是非!貴方のように可愛い方と友達になれたら、 それだけで日本に帰って来た甲斐があります。」 か、かわいい?この人は何を言っているのだろうか・・・ 「可愛いなんて、じ、冗談は、やめてください・・・」 僕はより下を向いて背中を丸くしてしまう。 下がって来た眼鏡を上げ、髪で顔が隠れるように自分の髪をクシャっとかき混ぜる。 「いいえ、冗談ではなくて、本当に・・・」 彼はそのあと一瞬言葉を探したようだったけれど、 僕が一切顔を上げない様子を見て、胸ポケットから何かを取り出した。 「これ以上は迷惑になってしまうかな・・・ 良かったら、名刺だけでも受け取ってくれると嬉しいな。」 そう言って名刺をテーブルに置いて、マスターと少し会話をした後で 彼は席を立ってしまった。 「もう帰ってしまうんですか?」 「ああ、本当に今日は顔を見せに来ただけだから」 そう言っているけど、僕の態度に気を悪くしたに違いない。 彼の席には、まだ殆ど口のつけられていないブランデーのグラスが置かれている。 2年ぶりにこの店に来たと言っていた彼をこんな短時間で帰らせてしまうなんて・・・ ここは自分が先に出て行くべきだと席を立つと、マスターと彼が揃って僕の方を見る。 「あ、あのっ、すいません。古宮さんは、まだいてください。 僕が居ると迷惑になるし、先に出ますから!」 そう言って財布から代金を取り出そうとする。 机に置かれた名刺も、このままにして行くのはあまりにも失礼だと思い、 急いでカードケースにしまった。 「春ちゃん、迷惑だなんて絶対にないよ! 俺が余計な気をまわしたから・・・」 マスターは何も悪くない。けれど今はこの場所に居たくないんだ。 おつりを受け取るのももどかしくて、一万円をテーブルに置き、 逃げるようにして店を出てしまった。 店を出てからまっすぐ家に帰り、玄関に備え付けの姿見の鏡を見てひとつため息をつく。 そして財布から貰った名刺を取り出し、机の上に置く。 名刺に記された職業は空間デザイナー。 ネットで会社名を検索してみたら 色んな雑誌やテレビで取り上げられるような商業施設などを手がけている会社のようだった。 古宮冬真(コミヤトウマ) 僕と同じく季節の名前を持つ人。 それが彼の名前だった。 → novel index top |